悪人の方がまし。

「お前の欲しがる理想の世界はこの世のどこにもありはしない」
 と、かつて歌った(語った?)テクノユニット*1があって、高校生当時はドキドキしながらプログレッシブな音のアルバムを聴きこんでいた。
 まあ、おっしゃる通りで、理想の世界などというものがこの世に存在したことが無いことは、あらゆる哲学や宗教が認めていることだ。たいていの人間もそのことを知っている。
 ただ、理想なき世界も、また存在したことは無い。良きにつけ悪しきにつけ、理想が世界を動かし、作り上げてきた。結果としてそれが達成されてはいないにせよ。
 理想が悪しき方に転げ落ちた例が、第二次世界大戦前後に見られた諸事件だろう。ナチスによるユダヤ人の虐殺を示すホロコーストばかりでなく、ソヴィエトロシアが帝政ロシアから延々と引き続いてきたポグロム(ユダヤ人の差別や殺戮)をより深刻な形で実行していたり、アメリカが原爆開発に狂奔した挙句に使用に至ったりしたのも、当事者たちから言わせれば理想実現のためだった。彼らなりの正義がそこにあった。歴史的に大悪と断罪されようとも。
 旧日本軍が引き起こした参事は、何やら闇に葬りたい人種が大量に湧いているためにネットでは言及することすら危険な雰囲気だが、べつに特定の事件、たとえば南京大虐殺などを取り上げずとも、所詮は暴力集団、あちこちで蛮行を行っている。八紘一宇だのアジア解放だのと理想を掲げていても、よほどに引き締めていない限り、軍という暴力装置は必ず惨事を引き起こすものである。ドイツや日本に限った話では、もちろん無い。歴史を遡れるだけ遡っても、軍の蛮行など見かけない方がおかしいというくらいに見られる。

 

 大概、高い理想を掲げた集団ほど、後世あるいは外の世界から見て凄まじい蛮行を行っているように見える。
 なにしろ理想主義者にとっては、理想に従わない連中はみんな敵なのだから、ある意味それも当然である。
 中には理想もへったくれもなく、単純に「穀潰しは邪魔だから殺す」という理由で30万人を一晩で穴に埋めて殺したという中国の英雄(項羽)もいたりはするが、歴史に残る大虐殺は、ほとんどが理想主義者たちの手による。
 ポル・ポトによるカンボジアでの大虐殺も、恐ろしいほどの理想主義の断行として行われた。中国の文化大革命なども、原因や結果がどうあれ、その担い手であった紅衛兵の行動原理は高邁な理想論だった。西欧キリスト教世界と中東イスラム社会の血で血を洗う戦いの緒戦となった十字軍も、神の名のもとに畜生以下の異教徒を殺戮すれば天国に行けるという宗教的情熱から、凄まじい殲滅戦が行われた。
 日本では不思議なほど知られていないが、アフリカの植民地で暴虐の限りを尽くし、1,000万人とも2,000万人ともいわれる犠牲者を出したベルギー王レオポルト2世は、本人は現地住民を苛酷に扱わないよう幾度も命令を出したり、「未開のアフリカに文明の恩恵を」と本気で考えていたり、母国ベルギーが歴史に埋もれないよう何としても植民地を得なければならないと愛国心のために行動していたり、彼自身は理想主義者といってよかった。だが結果として「未開のアフリカ」と呼ばれた彼の植民地では、過酷な労働と圧政によってバタバタと人が死に、あるいは手足を切断する罰を受け、人口が半減以下という惨況を呈した。

 

 理想を追うことが悪いとはいわない。
 理想無しに現実ばかり見るのは、ただの日和見主義者であり、将来に対して何の責任も持たないと宣言しているに等しい。
 だが、理想ばかりを見ると、理想に少しも近付こうとしない現実を憎むばかりになり、やがてタガが外れたような蛮行に及ぶようになる。
「理想の世界はこの世のどこにもありはしない」
 という言葉、思春期の私には「理想の世界なんか無いんだ、絶望するしかないんだ」というように聞こえていたのだが、理想主義者の凄まじい所業を歴史から学ぶにつれ、「そいつを理解しない理想主義者がいる限り悲劇は永遠に続くという、さらに深い絶望を歌っているんじゃないのか?」というようにも聞こえてくる。
 だから、私は自称理想主義者というのものを信用しない。できない。はっきりと嫌いである。
 考えすぎ、感じすぎ、厨二病か、と笑わば笑え。
 正義好きや理想好きと公言できてしまう人間を信用したり信頼したりするくらいなら、悪人と付き合う方がよほど気楽で安心だ。少なくとも悪人は現実の中で生きているから、交渉や妥協の余地があるし、理想主義者のように理想という論理ですべてを断罪したりはしない。利益が悪人のすべてであり、そうであれば常にお互いの利益を図って妥協が可能だ。
 ISISを見ればいい。彼らは自分たちを欠片も悪だとは思っていない。イスラムの理想を実現するために闘う聖戦士の集団である。彼らに妥協など、期待する方が愚かだということを、既に世界は行くつもの実例を見せつけられることによって学ばされている。

*1:soft balletのこと。あんまり知名度は高くない気がします…

Yahoo!様。

 ポータルサイトとしてのYahoo!は、一番人気を誇るだけあって、なんだかんだ言って使いやすい。

 スマホでもPCでも、ブラウザのトップはどうしてもgoogleYahoo!にしてしまう。

 ただ、鬱陶しさが先立つ要素が一つ。

 ニュースの項目に、「国際」というものがあるのだが、これが十中八九中国韓国ネタ。ISIS関連ニュースが今は増えているものの、それでも中韓ネタと比べれば吹けば飛ぶような量だ。

 残念ながら私には「特亜」なとと呼ばれているらしい中韓のニュースにさほどの興味は無く、粘着する気は毛頭ない。主要なニュースが見られれば十分なので、ほとんど熱狂的なまでに中韓ニュースを取り上げているページを見るとうんざりする。

 

 

 Yahoo!様、いっそそれだけの項目を作ってください。国際とは切り離して。ロシア-ウクライナ情勢や中東情勢、EU経済危機、アメリカ政界の動向、同じ東アジアでももっと取り上げるべき話題はたくさんあるはずです。

 それらのニュースが中韓に関するしょうもない情報(もちろん大事な情報も時々混じるが)に埋もれている現状は、ポータルサイトとしていかがなものでしょうか。

 

 

 と、ずいぶん前から思っているのだが、一向に改善される気配も無し、塩野七生のいう「サイレントマイノリティ」ではなく、マジョリティではないかと秘かに思っているのだが。

ルールが違うんだから。

 ルールは、個々の人間が他者とかかわる際に作り出すもの。
 社会全体でそれを共有するようになれば「常識」とか「規範」になり、もっと踏み込んで厳格に運用しようとすれば「法律」になる。
 ただ、人間が生きている上ですべての行動がルールとして一般化できるかというと、そんな事は無いわけで、たとえばどんなに仲の良い夫婦や友達であってもちょっとした意見の相違や行動の齟齬が出てくるのだから、全人類が納得できるルール作りというのは、まず不可能と考えていい。
 要は、ある程度のルールが無いと社会が営めないし、生きにくくて仕方がないから、納得できないまでも従うことはできる程度に定める。
 このルールの軸となる考え方、哲学や宗教が異なると、ルールそのものの基礎が相容れず、異なるルールを持つ者同士が争ったり排斥し合ったりすることになる。
 相手がルールを破ったから争う、というのではない。ルールそのものが基礎から違っている以上、お互いに意見がかみ合うはずもなく、その相手を受け入れる準備が無ければ戦うか排除するしかない。そうしなければ自分たちのルールが破綻してしまい、社会が営めなくなってしまう。

 

 イスラームと非イスラーム社会との軋轢が様々に噴出しているが、今やその象徴となった「ISIS」などは、我々日本人や日本が属する国際社会と最もルールがかみ合わない組織の代表格だろう。
 現代にも通ずる社会の大原則として、「政教分離」というものがある。日本では一時政教分離を捨てようとした時期もあったが、少なくとも現代では政教分離の原則は憲法にも謳われているし、社会の共通認識にもなっている。
 本人たちがどう取り繕おうがゴリゴリのキリスト教プロテスタントの国であるアメリカ合衆国も、建前上は政教分離がなされた国であり、イスラームを信仰する人々(ムスリム)を公職から追い出したり公に迫害している事実はない(ことになっている)。その他の宗教にしても同じだ。
 この「政教分離」は、今でこそ当たり前の考え方だが、実はそう古くない昔には口に出すのもおぞましい異端の考え、だった。少なくともキリスト教系の国々にとって。
 そもそも一神教の人々にとって、神とは自分の規範であり世界の規範なのだから、自分を律する宗教と世界を律する国家とは、同じように神のもとにあるべきもの。神と国家や社会を切り離す、という考え方は神への冒涜に等しい。
 一方で、イエス・キリストの言葉として知られる「皇帝のものは皇帝に」に示される、信仰生活と社会生活は切り離して考えるべきだという考え方もキリスト教は持っていた。その部分を大きく取り上げたことで近代ヨーロッパは宗教の呪縛から解かれ、現代の発展の基礎を築いた。
 イスラームの場合、基本的な考え方は「政祭一致」。ムスリムの理想社会とは、預言者ムハンマドが存命中に作り上げた信仰共同体であり、この信仰共同体と国家とは全く同一だった。理想がそうなのだから、政教分離などあり得ない、というのが一般的なイスラーム国家の考え方だ。
 政教分離を「正義」としてきた現代欧米諸国やその追随国家群にとっては、イスラームの考え方は時代遅れの悪しき伝統に映るかもしれない。だが、ムスリムたちにとって政教一致の体制は、息をするのと同じくらい当たり前のことなのだ。
 もちろん、政教分離の原則を採用するイスラーム国家もある。代表的な所ではトルコやインドネシアが挙げられる。世俗主義と呼ばれる考え方で国家を建設し、イスラームの法と世俗の法とを切り離して考える国々だ。一方で、サウジアラビアのように同じイスラームでも宗派が違えば信仰自体を禁じる厳格なイスラーム国家も存在する。
 冒頭でも述べたように、これらの国々と我々日本人とでは、ルールのもとになる部分が根こそぎ違っているのだから、共通するルールで統一するなど無理に決まっている。互いに互いの利益を尊重し、違いを理解し、受け入れるべきは受け入れて上手に付き合っていくほかない。限定的なルールの元で互いを冒さず付き合うしかない。
 それすらも拒否しているのが、原理主義といわれるイスラームの組織である。ISISもそうだし、タリバンやアル・カイーダなどもそうだ。
 彼らは唯一神の名のもとに世界が支配されていることが正義と唱え、それを否定するすべての存在が敵であるとする。同じムスリムであっても、彼らが考える唯一神の正義に抵触するような行動を取る国家や宗派は厳然として敵であり、同宗派内でも「敵」に融和的な連中は敵である。
 その彼らにとって、アリカ本土の同時多発テロ時に「十字軍」発言をした大統領を出したアメリカ合衆国とその仲間たちなどは、存在そのものが神を冒涜する敵の中の敵だろう。十字軍とは、歴史上最悪ともいえる侵略行為を行った集団であり、無警戒のムスリムを蹂躙し殺戮したあげく彼らの聖地を奪い汚したイスラーム史上比類ない敵である。わざわざ十字軍発言で世界のムスリムに喧嘩を売ったジョージ・ブッシュの真意など知らないし、明らかにキリスト教の立場から行動を表現した「政教分離国家の指導者」を評価する気は微塵も無いが、イスラーム社会にとって「十字軍」という言葉がどれだけ強力な禁忌の言葉であるか、日本人も少しは知っておいた方がいい。

 

 ISISの行動が理解を超えているのは、政教分離世俗主義的理性主義を絶対否定するところから彼らの原理がスタートしているからだ。我々とは立脚点がまるで違うのだから、理解できるはずがない。
 ただ、彼らが日本人を拉致した時点で、生かしておく理由が無いことくらいは多くの人々が気付いていたはずだ。口にすれば非人道主義者だのISISの消極的支持者だのといわれのない誹謗を受けかねないから公には口にしないにしても。
 ISISにとって日本人は敵ではなかったはずだ、それを敵に回すような羽目に陥らせたのは首相の中東訪問時の演説や政府の対応だ、とする意見もあるが、それがいかにばかばかしい議論であるかも多くの人々が気付いているだろう。でなければ、もっとマスコミが騒いでいるはずだ。誰がそれを言っているかをさらし上げるように報道するマスコミも、それが愚論だと暗に揶揄している気配を感じる。

 

 ISISが日本を敵視しない理由が、私には思い浮かばない。
 なにしろ、日本人の大多数はムスリムではない。唯一神に対する信仰すら持っていない。背教者集団の欧米諸国と常に歩調を合わせ、そのルールに従っている国だ。
 日本人が敵視してこなかったから相手も敵視はしていないはずだ、という恐ろしく幼稚で主観的な性善説の末に出てきたのではないことを祈りたいが、ISISが日本を敵視していないという理屈はどこから出てきたのだろう。
 ISISにとって、自分たち以外はすべて敵なのである。彼らにとっての自分たちとは、ムスリムであり、預言者ムハンマドの御世を理想とするアラブの戦士であり、その戦いのために命をささげることができる人間のことだ。
 それ以外はすべて敵。
 日本人のように、自分と味方と敵とそれ以外、というような多様な存在があるというルールのもとに思考しているのではない。
 自分と敵で、この世は構成されている。あるいは、神の戦士か、それ以外か。
 それが彼らのルール。
 人質を利用して何かを行うとしたら、それは戦略的に相手を弱体化させるためのみ。人質の命を保証することで取引を行う、という論理は、神の敵を滅ぼせという彼らの論理と食い違うから成立しえない。

 

 ルールが対立しているのではない。
 対立どころか、別次元にある。

 

 それを飲み込まないと、ISISの受け取り方を大きく間違ったまま延々と議論を続けていく羽目になる。

「たんつぼ」からの脱却。

 SNSポータルサイトのコメント欄は、常に断定的な書き込みにあふれている。

 この書き込み自体がすでに断定的だから、自己言及に陥っていて汗顔の至りなのだが、それはとりあえず措いて話を進める。

 これは、相手が目の前にいてコミュニケーションを取りながら行われているのなら、相当危険な行為である。常に断定的に言葉を繰り出す人間を相手にすることの苦痛さを思い返してみれば、自分がそれをしていたとしたら間違いなく相手を怒らせたり呆れさせたりする行為であると気付けるはずだ。現実にいたら嫌われ者街道まっしぐらだろう。

 コメント欄などでときに議論が発生している際も、悪罵や断定をまるで挨拶のように繰り返す輩を多く見かける。現実でやれば確実に殴り合いか訴訟になるような書き込みの連鎖は、ネット上ではごく日常的に見られる。

 これに不快感でももらせば、「ネットリテラシーが低い」「情弱」と罵声を放たれるのがオチというのが現状である。

 ネットの社会と現実社会を重ね合わせることはそもそも無理がある。

 ネット社会での強者と現実社会での強者は間違いなく乖離しており、重なり合うことはまずない。声がでかいものが勝ち、という大原則はだいたい同様なのだが、「声」の性格が全く違うのだから当然だ。

 現実世界での「声」は、一般論的には権力や権威の大きさ、あるいは単純な量(人数など)によって計られる。過激論となれば、それがいかに過激であるか、あるいは常軌を逸しているかによって計られる場合もある。

 ネットの場合、「声」の基準はそれがいかに読み手の自尊心をくすぐるかにかかってくる。

 現実社会の場合は必ず人間関係という素地があっての発言となるし、必ずしも自己の自尊心をくすぐらずとも利益になったり損害を及ぼしたりする場合が多いから、とりあえず聞いておかなければいけないという原則が生まれる。

 一方ネットは自己選択的に「声」を聞くことができる。つまり、自分が聞きたくないことは聞かずに済ませることができるし、聞こうと思ったら徹底的に検索して聞き続けることが可能である。とりあえず聞く、自分の耳に心地よくなくても、という苦痛を味わう必然性が無い。

 となれば、自分が気持ちよく、さらに同類の人間たちにとって気持ち良い「声」を発しなければ、その「声」が「大きい」、つまり多くの支持を受けることは実質的に不可能ということになる。不快でも受け止めなければ、という要素が少ないネット環境下では、それを聞くことが快感であるという言葉しか「声」とは認められないからだ。

 結果、自尊心を安易にくすぐることができる「声」がネットの主流のように語られる事態に陥る。

 人間の自尊心をくすぐろうとすれば、それがドメスティックな不特定多数に対するものであれば、愛国や愛郷に関わるもの、あるいはきわめて表層的な民族論に依拠した上での敵対民族攻撃が有効であること、昔から少しも変っていない。自分が属していない集団より、自分が属す集団が優れている、とする「声」は、簡単に人を気持ち良くさせる。簡単に快感を与える。

 快感は、常に更なる快感を求める引き金になる。一度与えられた「民族主義」や「愛国主義」「宗教上の優越」による快感は、さらに大きな刺激となり快感となるものを人に求めさせてしまう、麻薬のようなものである。

 ネットに安直かつ愚劣な民族主義保守主義(のようなもの)があふれかえっているのは、自ら考えて、相手とコミュニケーションも取りながら「声」を作り上げていく、という作業に直面する必要性から遠ざけられた(あるいは自ら遠ざかった)人々ばかりが「声」を上げている、ように見えるからだ。

 

 真の保守主義者は恐ろしいほどの先見性から改革主義者をも超える改革を行う、という歴史的事実がある。フランスのリシュリュー、ドイツのビスマルク、日本の大久保利通、歴史の古いところではローマのアウグストゥス後漢光武帝、みな人物を見ればどこをほじくっても保守主義者だが、歴史上は偉大な改革者の側面が大きい。

 彼らはどれも極めて厳しい現実主義者でありながら、自分が目指すべき理想を高々と持ち続けていた。だからこそ歴史に名を残す改革者となったし、結果として同時代や後世に平和や秩序をもたらした。

 少なくとも彼らは現実と対峙し、それを乗り越えたことで名を遺したことは間違いがない。偉大な保守主義者というのは、理想を持ち続けたリアリストである。

 彼らは決して自らに甘いだけの「声」に耳を傾けるような姿勢を取らなかった。安易な民族優越主義など最初から無視した。民族として優越しているから勝つのではなく、勝つから優越的になれるのだという当たり前の大原則を、彼らはよく理解していた。くだらない水掛け論で民族や国同士が険悪になろうが、彼らの知ったことではない。相手が利用できるなら徹底的に利用し、利用できないなら冷酷に切り捨て、相手の役に立つことが必要ならどんなに苦しかろうが支え続けた。

 そして、最終的に勝った。

 安っぽい民族論や愛国論にあおられ、自分が気持ちよく聞ける論にのみ耳を傾けるような人間とは、まるで大きさが違う。

 このような者たちに断定的にいわれれば、思わず納得もしてしまうのだろうが、彼らの百分の一でも現実に向き合っているとは思われないようなネットの「声」をどんなに聞いても、まったく心は震えないし、納得もできないのである。

 

 右であろうと左であろうと、宗教のどの派に立とうが、無宗教の旗を掲げようが、現実に立ち向かっていない、あるいは相手を否定・拒絶するばかりで価値を認めようとしない連中が出す声は、非常に皮相で軽薄に聞こえる。

 中庸が万能とは思わないし、現実に立ち向かっていれば偉いというものでもない。

 だが、少なくとも誰かを卑下し貶めることでしか自我を維持できない、あるいはそこで得る快感しか求めていないような連中がのさばっているネットという社会を見るにつけ、「たんつぼ」と自分の巨大掲示板を表現した某人物の名言を、そのままネット言論の社会全体に敷衍させてしまっても良いのではないか、と短絡的に考えたくなってしまう。

 ネット社会の黎明期からそうだったと私も思うが、いずれは多少成長するのではないかと甘く考えてもいた。どうも、「たんつぼ」からの脱却は、あるいは不可能なのではないかとも、今は思っている。