「たんつぼ」からの脱却。

 SNSポータルサイトのコメント欄は、常に断定的な書き込みにあふれている。

 この書き込み自体がすでに断定的だから、自己言及に陥っていて汗顔の至りなのだが、それはとりあえず措いて話を進める。

 これは、相手が目の前にいてコミュニケーションを取りながら行われているのなら、相当危険な行為である。常に断定的に言葉を繰り出す人間を相手にすることの苦痛さを思い返してみれば、自分がそれをしていたとしたら間違いなく相手を怒らせたり呆れさせたりする行為であると気付けるはずだ。現実にいたら嫌われ者街道まっしぐらだろう。

 コメント欄などでときに議論が発生している際も、悪罵や断定をまるで挨拶のように繰り返す輩を多く見かける。現実でやれば確実に殴り合いか訴訟になるような書き込みの連鎖は、ネット上ではごく日常的に見られる。

 これに不快感でももらせば、「ネットリテラシーが低い」「情弱」と罵声を放たれるのがオチというのが現状である。

 ネットの社会と現実社会を重ね合わせることはそもそも無理がある。

 ネット社会での強者と現実社会での強者は間違いなく乖離しており、重なり合うことはまずない。声がでかいものが勝ち、という大原則はだいたい同様なのだが、「声」の性格が全く違うのだから当然だ。

 現実世界での「声」は、一般論的には権力や権威の大きさ、あるいは単純な量(人数など)によって計られる。過激論となれば、それがいかに過激であるか、あるいは常軌を逸しているかによって計られる場合もある。

 ネットの場合、「声」の基準はそれがいかに読み手の自尊心をくすぐるかにかかってくる。

 現実社会の場合は必ず人間関係という素地があっての発言となるし、必ずしも自己の自尊心をくすぐらずとも利益になったり損害を及ぼしたりする場合が多いから、とりあえず聞いておかなければいけないという原則が生まれる。

 一方ネットは自己選択的に「声」を聞くことができる。つまり、自分が聞きたくないことは聞かずに済ませることができるし、聞こうと思ったら徹底的に検索して聞き続けることが可能である。とりあえず聞く、自分の耳に心地よくなくても、という苦痛を味わう必然性が無い。

 となれば、自分が気持ちよく、さらに同類の人間たちにとって気持ち良い「声」を発しなければ、その「声」が「大きい」、つまり多くの支持を受けることは実質的に不可能ということになる。不快でも受け止めなければ、という要素が少ないネット環境下では、それを聞くことが快感であるという言葉しか「声」とは認められないからだ。

 結果、自尊心を安易にくすぐることができる「声」がネットの主流のように語られる事態に陥る。

 人間の自尊心をくすぐろうとすれば、それがドメスティックな不特定多数に対するものであれば、愛国や愛郷に関わるもの、あるいはきわめて表層的な民族論に依拠した上での敵対民族攻撃が有効であること、昔から少しも変っていない。自分が属していない集団より、自分が属す集団が優れている、とする「声」は、簡単に人を気持ち良くさせる。簡単に快感を与える。

 快感は、常に更なる快感を求める引き金になる。一度与えられた「民族主義」や「愛国主義」「宗教上の優越」による快感は、さらに大きな刺激となり快感となるものを人に求めさせてしまう、麻薬のようなものである。

 ネットに安直かつ愚劣な民族主義保守主義(のようなもの)があふれかえっているのは、自ら考えて、相手とコミュニケーションも取りながら「声」を作り上げていく、という作業に直面する必要性から遠ざけられた(あるいは自ら遠ざかった)人々ばかりが「声」を上げている、ように見えるからだ。

 

 真の保守主義者は恐ろしいほどの先見性から改革主義者をも超える改革を行う、という歴史的事実がある。フランスのリシュリュー、ドイツのビスマルク、日本の大久保利通、歴史の古いところではローマのアウグストゥス後漢光武帝、みな人物を見ればどこをほじくっても保守主義者だが、歴史上は偉大な改革者の側面が大きい。

 彼らはどれも極めて厳しい現実主義者でありながら、自分が目指すべき理想を高々と持ち続けていた。だからこそ歴史に名を残す改革者となったし、結果として同時代や後世に平和や秩序をもたらした。

 少なくとも彼らは現実と対峙し、それを乗り越えたことで名を遺したことは間違いがない。偉大な保守主義者というのは、理想を持ち続けたリアリストである。

 彼らは決して自らに甘いだけの「声」に耳を傾けるような姿勢を取らなかった。安易な民族優越主義など最初から無視した。民族として優越しているから勝つのではなく、勝つから優越的になれるのだという当たり前の大原則を、彼らはよく理解していた。くだらない水掛け論で民族や国同士が険悪になろうが、彼らの知ったことではない。相手が利用できるなら徹底的に利用し、利用できないなら冷酷に切り捨て、相手の役に立つことが必要ならどんなに苦しかろうが支え続けた。

 そして、最終的に勝った。

 安っぽい民族論や愛国論にあおられ、自分が気持ちよく聞ける論にのみ耳を傾けるような人間とは、まるで大きさが違う。

 このような者たちに断定的にいわれれば、思わず納得もしてしまうのだろうが、彼らの百分の一でも現実に向き合っているとは思われないようなネットの「声」をどんなに聞いても、まったく心は震えないし、納得もできないのである。

 

 右であろうと左であろうと、宗教のどの派に立とうが、無宗教の旗を掲げようが、現実に立ち向かっていない、あるいは相手を否定・拒絶するばかりで価値を認めようとしない連中が出す声は、非常に皮相で軽薄に聞こえる。

 中庸が万能とは思わないし、現実に立ち向かっていれば偉いというものでもない。

 だが、少なくとも誰かを卑下し貶めることでしか自我を維持できない、あるいはそこで得る快感しか求めていないような連中がのさばっているネットという社会を見るにつけ、「たんつぼ」と自分の巨大掲示板を表現した某人物の名言を、そのままネット言論の社会全体に敷衍させてしまっても良いのではないか、と短絡的に考えたくなってしまう。

 ネット社会の黎明期からそうだったと私も思うが、いずれは多少成長するのではないかと甘く考えてもいた。どうも、「たんつぼ」からの脱却は、あるいは不可能なのではないかとも、今は思っている。