ルールが違うんだから。

 ルールは、個々の人間が他者とかかわる際に作り出すもの。
 社会全体でそれを共有するようになれば「常識」とか「規範」になり、もっと踏み込んで厳格に運用しようとすれば「法律」になる。
 ただ、人間が生きている上ですべての行動がルールとして一般化できるかというと、そんな事は無いわけで、たとえばどんなに仲の良い夫婦や友達であってもちょっとした意見の相違や行動の齟齬が出てくるのだから、全人類が納得できるルール作りというのは、まず不可能と考えていい。
 要は、ある程度のルールが無いと社会が営めないし、生きにくくて仕方がないから、納得できないまでも従うことはできる程度に定める。
 このルールの軸となる考え方、哲学や宗教が異なると、ルールそのものの基礎が相容れず、異なるルールを持つ者同士が争ったり排斥し合ったりすることになる。
 相手がルールを破ったから争う、というのではない。ルールそのものが基礎から違っている以上、お互いに意見がかみ合うはずもなく、その相手を受け入れる準備が無ければ戦うか排除するしかない。そうしなければ自分たちのルールが破綻してしまい、社会が営めなくなってしまう。

 

 イスラームと非イスラーム社会との軋轢が様々に噴出しているが、今やその象徴となった「ISIS」などは、我々日本人や日本が属する国際社会と最もルールがかみ合わない組織の代表格だろう。
 現代にも通ずる社会の大原則として、「政教分離」というものがある。日本では一時政教分離を捨てようとした時期もあったが、少なくとも現代では政教分離の原則は憲法にも謳われているし、社会の共通認識にもなっている。
 本人たちがどう取り繕おうがゴリゴリのキリスト教プロテスタントの国であるアメリカ合衆国も、建前上は政教分離がなされた国であり、イスラームを信仰する人々(ムスリム)を公職から追い出したり公に迫害している事実はない(ことになっている)。その他の宗教にしても同じだ。
 この「政教分離」は、今でこそ当たり前の考え方だが、実はそう古くない昔には口に出すのもおぞましい異端の考え、だった。少なくともキリスト教系の国々にとって。
 そもそも一神教の人々にとって、神とは自分の規範であり世界の規範なのだから、自分を律する宗教と世界を律する国家とは、同じように神のもとにあるべきもの。神と国家や社会を切り離す、という考え方は神への冒涜に等しい。
 一方で、イエス・キリストの言葉として知られる「皇帝のものは皇帝に」に示される、信仰生活と社会生活は切り離して考えるべきだという考え方もキリスト教は持っていた。その部分を大きく取り上げたことで近代ヨーロッパは宗教の呪縛から解かれ、現代の発展の基礎を築いた。
 イスラームの場合、基本的な考え方は「政祭一致」。ムスリムの理想社会とは、預言者ムハンマドが存命中に作り上げた信仰共同体であり、この信仰共同体と国家とは全く同一だった。理想がそうなのだから、政教分離などあり得ない、というのが一般的なイスラーム国家の考え方だ。
 政教分離を「正義」としてきた現代欧米諸国やその追随国家群にとっては、イスラームの考え方は時代遅れの悪しき伝統に映るかもしれない。だが、ムスリムたちにとって政教一致の体制は、息をするのと同じくらい当たり前のことなのだ。
 もちろん、政教分離の原則を採用するイスラーム国家もある。代表的な所ではトルコやインドネシアが挙げられる。世俗主義と呼ばれる考え方で国家を建設し、イスラームの法と世俗の法とを切り離して考える国々だ。一方で、サウジアラビアのように同じイスラームでも宗派が違えば信仰自体を禁じる厳格なイスラーム国家も存在する。
 冒頭でも述べたように、これらの国々と我々日本人とでは、ルールのもとになる部分が根こそぎ違っているのだから、共通するルールで統一するなど無理に決まっている。互いに互いの利益を尊重し、違いを理解し、受け入れるべきは受け入れて上手に付き合っていくほかない。限定的なルールの元で互いを冒さず付き合うしかない。
 それすらも拒否しているのが、原理主義といわれるイスラームの組織である。ISISもそうだし、タリバンやアル・カイーダなどもそうだ。
 彼らは唯一神の名のもとに世界が支配されていることが正義と唱え、それを否定するすべての存在が敵であるとする。同じムスリムであっても、彼らが考える唯一神の正義に抵触するような行動を取る国家や宗派は厳然として敵であり、同宗派内でも「敵」に融和的な連中は敵である。
 その彼らにとって、アリカ本土の同時多発テロ時に「十字軍」発言をした大統領を出したアメリカ合衆国とその仲間たちなどは、存在そのものが神を冒涜する敵の中の敵だろう。十字軍とは、歴史上最悪ともいえる侵略行為を行った集団であり、無警戒のムスリムを蹂躙し殺戮したあげく彼らの聖地を奪い汚したイスラーム史上比類ない敵である。わざわざ十字軍発言で世界のムスリムに喧嘩を売ったジョージ・ブッシュの真意など知らないし、明らかにキリスト教の立場から行動を表現した「政教分離国家の指導者」を評価する気は微塵も無いが、イスラーム社会にとって「十字軍」という言葉がどれだけ強力な禁忌の言葉であるか、日本人も少しは知っておいた方がいい。

 

 ISISの行動が理解を超えているのは、政教分離世俗主義的理性主義を絶対否定するところから彼らの原理がスタートしているからだ。我々とは立脚点がまるで違うのだから、理解できるはずがない。
 ただ、彼らが日本人を拉致した時点で、生かしておく理由が無いことくらいは多くの人々が気付いていたはずだ。口にすれば非人道主義者だのISISの消極的支持者だのといわれのない誹謗を受けかねないから公には口にしないにしても。
 ISISにとって日本人は敵ではなかったはずだ、それを敵に回すような羽目に陥らせたのは首相の中東訪問時の演説や政府の対応だ、とする意見もあるが、それがいかにばかばかしい議論であるかも多くの人々が気付いているだろう。でなければ、もっとマスコミが騒いでいるはずだ。誰がそれを言っているかをさらし上げるように報道するマスコミも、それが愚論だと暗に揶揄している気配を感じる。

 

 ISISが日本を敵視しない理由が、私には思い浮かばない。
 なにしろ、日本人の大多数はムスリムではない。唯一神に対する信仰すら持っていない。背教者集団の欧米諸国と常に歩調を合わせ、そのルールに従っている国だ。
 日本人が敵視してこなかったから相手も敵視はしていないはずだ、という恐ろしく幼稚で主観的な性善説の末に出てきたのではないことを祈りたいが、ISISが日本を敵視していないという理屈はどこから出てきたのだろう。
 ISISにとって、自分たち以外はすべて敵なのである。彼らにとっての自分たちとは、ムスリムであり、預言者ムハンマドの御世を理想とするアラブの戦士であり、その戦いのために命をささげることができる人間のことだ。
 それ以外はすべて敵。
 日本人のように、自分と味方と敵とそれ以外、というような多様な存在があるというルールのもとに思考しているのではない。
 自分と敵で、この世は構成されている。あるいは、神の戦士か、それ以外か。
 それが彼らのルール。
 人質を利用して何かを行うとしたら、それは戦略的に相手を弱体化させるためのみ。人質の命を保証することで取引を行う、という論理は、神の敵を滅ぼせという彼らの論理と食い違うから成立しえない。

 

 ルールが対立しているのではない。
 対立どころか、別次元にある。

 

 それを飲み込まないと、ISISの受け取り方を大きく間違ったまま延々と議論を続けていく羽目になる。